沙門良寛とオーネットコールマン
 【東北大学松風寮「松風」復刊第1号(1973)原稿.】
はじめに   
 良寛、オーネットコールマンは、それぞれ分野は異なるが、両者とも偉大な芸術家である。十代の頃から現在に至るまで、自分の感受性、表現方法、考え方など、いろいろな意味において、私に非常に多くのものを与えてくれたと思う。この二者の人間像やら、自分が感じたことなどを書いてみようと思う。
沙門良寛
良寛に興味を持つようになったのは高校時代の頃で、自分が好んで臨書していた書家の鈴木翠軒に影響を及ぼした人物の一人と言うことで参考のためにいろいろな本を探して調べているうちに、良寛の人間性とそれから生まれる書の美しさに魅惑されたのである。  現代の社会においては、人間のほとんどは一種の規格品に仕上げられる仕組みになっている。幼年時代から学校に通い、そこで、資本主義という社会に適した鋳型にはめ込まれ、社会に送り出される。一般的には、そういう規格を無視したら、人間らしく生活することは出来ない仕組みになっている。この社会で良識と言うことは、この規格基準に対する逸脱度の問題であり、真の意味での良識ではないであろう。社会という共同体は、個々の人間の利益がいろいろな意味において、共同体を形作った方が個人個人の場合よりもより多く得られるから出来上がったものだと思われる。そしてそこでは、人間は平等であり、人間は尊重されねばならない。即ち、個々の人間に最大の価値が置かれなければならないと思われる。これが、民主主義の社会における人権であろう。本来、人間の良心とか社会の良識とか言うものは、こう言った根本的な意味から考えられなければならないはずである。政治にしても学問にしても同様であろう。
良寛は当時でさえも周囲の人達の目を見張らせるような生き方をした。良寛の一般的に知られているイメージは子どもと戯れる姿であろう。しかし、さらに調べてみると、良寛は周囲の人達の目をおそれることなく、勇気を持って自分の生命を生涯、哀惜しつつ生き抜いた人間であることがわかる。私が良寛に魅せられるのは、その人間性を生涯通したことである。すべての人間が平等に、同じ人間として扱われなかった時代において、人間のあるべき姿を良寛は自分の身をもって、精一杯表現したと思われる。それらが和歌や漢詩の中に、また、それらを形作る書の中に余すところ無く見られるからである。
良寛の書の美しさは、第一に線の清純さで、いかにも清潔で明るく素直である。二百年経った今でも近代的な美しさを感じさせる。第二に、全体的な文字の流れの美しさ、作品全体の上に流れの美をこれほど追求した人も珍しいと思われる。個々の文字の構造を犠牲にするという意識すら持たないほど、自ら流れの美に陶酔していると思われる。第三に、空間処理方法の美しさ。行間の兼ね合いなどというものは、良寛の作品においては素晴らしいもので、うまく空間を処理している。一つ一つの文字のバランスを崩して全体のバランスを保つ方法で、それがきわめて自然である。
 良寛の書は、詩や歌にうかがわれる天真爛漫さや、伝えられる奇行の数々から想像される人間性が表れていることは確かであるが、しかし、それだけで、その時代を抜いた風格を説明し得るほど単純なものではないと思われる。
オーネットコールマン
大学院の頃、何かの拍子にジャズを聴くようになった。その前から、ドラマのバック・ミュージックに入っている小間切れの音楽に興味を持っていた。例えば、危険が迫っている場面、追跡の場面など雰囲気を盛り上げるための効果音楽であり、意外と身近なものである。ジャズに興味のない人達は、ジャズというものを普通のポピュラーミュージックと同種類のものと誤解しているのは残念なことに思う。
 ジャズは、ラテンアメリカを経由してアメリカ本土に入り込み、黒人によって作られたものである。だが、アメリカ本土に入り込んだときから、黒人音楽はラテン諸島に見られないような現象を起こした。即ち、。黒人達は白人の社会に投げ込まれて、如何に彼等が文化などの面において差別されているか知らされた。ジャズの歴史は同時に、白人の社会の中で、黒人達が如何に虐げられてきたか、そして、その中で、白人への同化への傾向の歴史とともに捉えることができるであろう。
 だいたい、ジャズに興味を持つと、マイルス・デビィス、セロニァス・モンク、ジョン・コルトレーンとか言う人達の音楽を聴くことから始まるらしい。小生の場合は、レコードマンスリーという雑誌のアーティスト紹介の欄で、「フリー・ジャズ」と言う文字を見て、「フリー」とはどういう意味を持つのか知りたくなり、手に入れたレコードがオーネットコールマンの「来るべきジャズの形」であり、これが、60年代初めのジャズ界の傑作であり、問題作でもあったのである。
 オーネットコールマンの音楽は、伝統を引き継いだマイルスやコルトレーンらの音楽を根底から変えたものと言える。「フリー」という意味は、伝統や慣習からの解放の意味と思われる。オーネットコールマンは、アルトサックス奏者であると共に、作曲者でもある。彼の演奏する曲はほとんど自分の作曲である。彼の音楽においては、まず、アルトサックスの音の美しさ、独創的なフレイジングとリズムにあると思う。それらは、絞り出すような音、速いアドリブ、テンポの遅い曲の単純素朴な音色の美しさとなって現れる。オーネットコールマンの言葉によれば、「『平和』と言う曲で吹くFの音と『悲哀』と言う曲で吹くFの音は同じであってはならないと考える」と言う。個々に、彼の音楽に対する姿勢の素晴らしさがある。
 60年代初め、彼がジャズ界からひどく迫害された。彼が一般に芸術家として認められるようになったのは数年経ってからである。どこの社会に妬いても、既成概念のために、新しく出現したものは正しいものであっても、素晴らしい作品であっても、理解されるのは難しいものであろう。コペルニクスの地動説がよい例であろう。
 私達が育った社会の歴史や自分の歴史を振り返って考察し、自分を現在の社会において位置づけなければ、真の民主的な判断というものは不可能であると思う。売り物のために、安易な新しい形の音楽を作ったりする人間の多いジャズ界で、オーネットコールマンは自分の音楽を迫害されても守り通したところに、さらに、音楽に対する姿勢の価値が認められるであろう。
あとがき
 私達の回りには、素晴らしいことがたくさんある。単に好き嫌いで、興味を持つことを止めるのは小生にとってはもったいない。大学時代以来、小生は、好奇心が強い方であるから、いろいろなものに手をふれてきたつもりである。それらの多くは、小生の精神生活を豊かにしてくれた。そして、これからもそういったものを大事にしたいと思う。
間庭の序 詩巻 天気稍和調